おひさまっ子の会・水泳部
団体紹介: 誕生:1990年4月発足
活動場所: 横浜ラポール プール
1.発足の経緯
私たちの子どもが、まだ幼かった、1989年頃、現会員の一人が『スキンシップ水泳療育』という本を見つけました。それはいわゆる専門的な本ではなく、障害のある子どもたちを水泳で楽しく遊ばせながら、機能を回復させようという本でした。そこで、著者である池田君子先生に思い切って手紙を出すと、直々にお電話を頂き、横浜の地で水泳指導が受けられないかをご相談しました。・・以下添付ファイルをご覧ください。
2.プール探し
その後、リハセンターの水治療室で初体験、いよいよ6月からは北部プール(現都筑プール)に舞台を移し、水泳教室がスタートしました。
しかし、北部プール側も、大勢のハンディキャップのある子どもたちの入場で、少なからず混乱があり、寝かせられない更衣室や水温の低さ、また、おむつ使用者お断りの規則、公共のプールなので占有できないこと、などなど、いろいろな問題と向き合うことになりました。・・以下、添付ファイルご覧ください。
3.「こどもの杜」との出会い
翌10月末ごろ、子どもの遊ぶ施設である「こどもの杜」(青葉区)にプールがあることが分かり、ダメもとで電話をしてみると、意外にも使用できそうな前向きのお返事。さっそく当時の役員のお母さん3人が直接出向き、職員のMさんと、運命の(?)出会いを果たしたわけです。・・以下添付ファイルをご覧ください。
4.「横浜ラポール」オープン
1992年待望の、障害者のスポーツ施設「横浜ラポール」が完成しました。さっそく9月から利用しました。しかし、水温が期待していたほどではなく、私たちの子どものように、思うように体が動かせずにじっとしていることの多い子は、体が冷えてしまいます。唇を青くして震えてくる子も多く、おのずと冬場の「ラポール」での活動はムリと判断、主に夏場に利用することになりました。・・以下、添付ファイルをご覧ください。
5.ボランテイアさん
活動が定着し始めると、私たちは、親だけでは大変になってくることに気付きました。子どもは元気でも、親が体調を崩してプールに入れないこともあり、また移動や着替えの手間など助けてくれる人を探すことにしました。“ボランティアさん募集”の呼びかけに、様々な方が来て下さるようになり、今日まで、プールの内と外で、私たちを支えてくれています。・・以下添付ファイルをご覧ください。
6.指導者養成講座の開催
子どもの成長に合わせて、親やボランティアさん方も、いつまでも池田先生の指示待ちばかりではなく、自分たちの技術も磨いていこうということになり、1992年、池田先生に「スキンシップ水泳療育の指導者養成講座」を2日間にわたって開いていただくことになりました。役員さんは、「ラポール」と何度も交渉を重ね、受講者だけでプールに入ること、2日間の会議室やプールの部分利用などを認めていただきました。その他にも、受講者の募集や当日の運営など、実にパワフルな活動を展開しました。・・以下添付ファイルをご覧ください。
7.バザー
会の運営費の捻出は大きな問題です。補助金などの申し込みは行なっていますが、やはり自分たちでも費用を捻出する必要があります。また、地域の方々に私たちの活動や名前を覚えていただくことも重要です。そこで、1993年2月、大倉山の“梅祭りバザー”に、初めて参加することになりました。バザーの献品集め、当日のおにぎり作りなど、役員さんを中心に準備を進めました。・・以下、添付ファイルをご覧ください。
8.夏合宿
創立3年目の1992年、活動も軌道に乗ってくると、「合宿をした方がいいのでは」との声が上がり、まずは、新治養護学校のプレイホールでの池田先生による親子体操やレクチャー、夜は十日市場の活動ホームに移動し、宿泊、懇親を深めました。親同士が日ごろ、なかなか顔を合わせてじっくり話しをする機会がないので、こういう合宿は貴重な経験でした。それ以降、定期的な合宿へと発展していきました。・・以下、添付ファイルをご覧ください。
9.勉強会
1994年頃より、池田先生の個別指導の様子をビデオカメラに撮り、あとでそのビデオを見ながら勉強する機会を設けるようにしました。自分の子はもちろん、ほかの子ども達の様子を見ることも参考になるものです。勉強会は年に一度くらいですが、普段のミーティングではなかなか話せないことも、ゆっくり時間をとることが出来るので、有意義な機会といえます。
10.池田先生からの独立
もともと、池田先生から10年間は指導してあげるのでその間に指導できる人を養成するように、との約束がありました。そこで、10年目以降徐々に指導いただく回数を減らし、現在(2014年6月)ではコーチ2名、ボランテイア7名、その他主に父親が介助に入ることで水泳療育を行っています。